それは「生きている」ことを肯定すること。
何が善くて、何が悪いのか。多様性が叫ばれる時代、この問いへの答えは人それぞれだとされる。何が正しく、何が善くて、何が美しいのか——その基準は揺らぎ、共通の答えを見つけることはますます難しくなっている。
だからこそ、私たちは問う。信じるに足る「善」とは何か。
その答えは、意外なほどシンプルである。「生きている」ことを肯定すること——それが善だ。ニヒリズムが生の無意味を説き、反出生主義が生の持続を否定するとき、私たちはその対極に立つ。生を肯定する。これが私たちの出発点であり、絶対善と呼ぶものの核心である。
では、なぜ「生きている」ことを肯定することが善なのか。それは以下の2つの感覚に集約される。
何かが揺らぐ時代にあっても、この感覚だけは抗いようのない絶対性を持つ。その普遍性に、善の根拠がある。
そして、次の問いが生まれる。「生きた」感覚とは何か。
ベルクソンはélan vital——生命の躍動——という概念を提唱した。生命には本来、内側から溢れ出す創造的な力が宿っている。その力は外から与えられるものではなく、生命そのものに内在している。
しかし、その力は常に十分に発揮されているわけではない。福田恒存はこう述べた。
人がいるべき場所に身を置いているとき、違和感は消え、「必然性」の感覚が生まれる。それが生きがいの正体だ。つまり、人と環境が噛み合ったとき、はじめてその力は最大限発揮される。
楽器と演奏者が調和した時に美しい音が奏でられるように、人と環境が調和した時に「生きた」感覚が奏でられる。
「生きた感覚」を肯定することは、すぐさま「美」や「芸術」へと通ずる。
ハイデガーはἀλήθεια (アレーテイア)——真理——を「不伏蔵性 = 隠れなき状態」と解した。真理とは覆いが取り除かれ、剥き出しになった状態である。彼は芸術作品の根源を論じる中で、真の芸術はものの剥き出しの状態を作品の内に据えること、その結果として鑑賞者に「美しい」感覚を喚起するのだと述べた。
小林秀雄による『ゴッホの手紙』の中で、その考えを「作品」からさらに「人間」へと拡張したゴッホの視点が垣間見える。「生きた」感覚が発現する時、その人は実存のありのままの姿——隠れなき状態——として人々の前に現れる。生かされた人間の剥き出しの状態そのものが、周囲を生かしていく。真の芸術家とは、作品を介することなく、自らの実存で人々を生かす存在なのかもしれない。
「生きた」感覚——それが芸術の本質であり、善であり、美しいということだ。
私たちはこの「生きた感覚」を、「感情」の視点から捉え直す。人の特性と環境の特性がどう噛み合うか——その構造を解き明かし、社会に実装することがKUHの使命である。